ベクトルやや内向き

都市ゲリラ論に傾倒するサラリーマンの雑記

ブログのサブタイトルについて

公開日:2020年7月5日、更新日:2020年7月5日

ブログのサブタイトルについて

こんにちは。ブログ初心者のMt. YAです。

今回は、ブログのサブタイトルについて記載します。

本ブログのサブタイトルは「都市ゲリラ論に傾倒するサラリーマンの雑記」です。

その中の都市ゲリラ論について、今回は記載します。

以下の文献を写経(文字おこし)しました。(誤字があるかも。。。)

文献名:安藤忠雄 建築手法 2005年4月20日2刷発行 (光の教会のサイン入り、光の教会のスタンプ入り!!!)

少し難しい文章ですが、5?章の「重層化し・・・」からが分かりやすいかも。

「住宅は都市ゲリラのアジト」ってことかな。

少しそれるけど、アジト=潜伏場所として、自分の潜伏場所について考えると、職場の自席、家、自分の部屋、PC(オフライン時)、頭の中ってことなのかと。。。

outputする場所ではなく、inputされたものを処理する場所ってことかと。

ここで名言を一本いかせて頂きます。

『閉じこもらないと産まれない・造れない。でも外にでないと稼げない。(by Mt. YA)』

都市ゲリラ住居 安藤忠雄 1972

個を理論の中心に据えること、あるいは、また・・・・  産業革命以来の諸技術の展開が、もっぱら<工業>発展の理論にその主軸を置き、それに巻き付いて浮上してくる資本の理論としての<経済的エフィシィエンシ―の原理>、そしてそれをより好ましい形で可能たらしむ<技術進展の原理>を通して、近代の人間が、道具的存在に堕落し、ホモ・エコノミックス化していることは、今となってはいい古されたいいまわしであろう。が、しかし、そのような近代技術と近代資本主義理論の浸透の過程で、かたや、いかに多くの<人間的諸事象>が、忘却の片隅に追いやられてきたか。建築の分野においても、ウィリアム・モリスの<アーツ&クラフト運動>を嚆矢(こうし)とし、初期バウハウスなその流れに汲みとれる<近代>の病根に対決する<抵抗>の運動が、常にこの問題の狭間で挫折、解消してゆき、今尚、明確なオリエンテーションを見つけかね蛇行しているのが実状であるにもかかわらず、<多様化>という、便利で曖昧模糊(あいまいもこ)とした言葉の中に吸収されようとしている情況を想起すれば、あらためて、その潮流の底の深さを感じずにはおれない。

 時代の流れに敏感な建築分野では<多様化>に呼応して、<カプセル><ポップ・アーキテクチャア><ヴァナキュラリズム><アノニマスアーキテクチャア><デザイン・サーベイ>等々、ヴォキャブラリーも多岐に及び、まさに百花繚乱(ひゃっかりょうらん)の感が濃いが、そのような現代のカオス的断面の中で、<都市ゲリラ住居>はいかなる意味をもちうるか。    例えば、多彩なヴォキャブラリーのうちの一つ<情報都市>という言葉は、一言で言えば、都市を<情報>処理の巨大なシステムとして把握していこうとする考えであり、社会のメカニズムを考察するうえで意味を持ち、その指し示す世界は、共同幻想的にのみ存在するメタリックに光る白色のイメージの、ホモジニアスで、あくまでもクールな世界であって、住居の理論にそのような<上>からのヴォキャブラリーを直截(ちょくせつ)に引きずり込むことは、本質的にできない。    住居とは、システマティックにパターン化可能なほど、単純明解なものでありえず、理由付加が困難な、行為の軌跡の集積であると考える我々にとって、基本的に、そして、それは極めて本質的なことなのであるが、住居とは、<物(都市なども含む)>からも、<多数>からも、離脱したところに存在する。そして、あくまで、<個>から発せられる、<住まう><生活する>ということに対する自我の、ある時は、グロテスクなまでむき出しの裸性の欲求を、思考の中心、イメージの中心に据える。即ち住居は、それらをすっぽりとのみ込んでしまうようなシェルターとして、イメージされるのである。    重層化し、錯綜した都市の中で、高度な<情報化>と、それに伴うビューロクラシー ―それはトータルであることを禁じ、<個>を部品化し、そして<技術>から魂をも抜き取りうるものであるが、― に、対抗し、終局を告げうる唯一の砦は、<個>から構築された住居であり、現代都市の中で人間的復権を望みうる最右翼は、この<住まう>欲求のもつ本質の復権であろう。従って、そのような住居は、当然のことながら、動物的とでもいえるような、強烈ないわば<劇的に生を獲得する>ようなスペースを、内包しなければならぬ。<都市ゲリラ住居>は、イメージとしての、ゲリラのアジト。これらの思考の構築は<上>からなされたものではなく、あくまでも<個>のレベルからしかなされない。<個>を思想の中心に据えること、あるいはまた、肉体的直感を基礎に据えた、自己表現としての住居を求めること。   PACKAGED ENVIRONMENT ここに提示された住居の施主は、いずれも、都市のもつ社会的機能に密接にからまった職業を持つ人々で、ゲリラⅠ(加藤邸)のTVプロデューサーはいうに及ばず、ゲリラⅢ(冨島邸)は、都心の会社のサラリーマン、ゲリラⅡ(スワン商会ビル―小林邸)は、工業地域から日夜生み出される汚れた作業着に、その職業的基盤を持っている。彼ら自身が、彼ら自身の大事業である、住まいを持ちたい、という願望実現のために、予算、家庭内の諸事情、職業との関係など、様々な要因のバランスを計り、そのout-putとして出てきたのが、三者とも、大都市過密地域の猫のひたいほどのエリアを所有して、独立住居を建設するという結論であった。この事実は、何を意味しているのか・・・。

 中途半端な偽善的なコミュニティ論よりは、そのような都市に、それでも住みついていこうとする人々の意志と、その時の唯一の解決策を、より有効に吸いあげることの方が、はるかに、地についた行為ではないか。そして、三地域とも、外部環境の劣悪化の故に、たとえば、<ドラマティックな、内外空間の相互貫入>を、空間的テーマとして追求するといったことが、幻想であり、無意味であることが、あまりにも明白である以上、我々の三住居に対するテーマは、外部環境への<嫌悪>と、<拒絶>の意志表示としてファサードを捨象(しゃしょう)し、内部空間の充実化をめざすことによって、そこにミクロコスモスを現出せしめ、あらたなリアリティをその空間に追い求めることになる。ここで、前節に述べた、住居に対するベイシックな概念としての<個>を、理論の中心に据えることが、この三住居で、あまりにもピュアな形で、登場する結果となったのである。非人間的環境に対して、お人好し的な触手を可能な限り拒否し、これら三住居の立地環境を生み出した、その裏返しとして、無意味で、魂の拡散した、通俗的構成主義様式で、均質化している白い近代建築に対する、ささやかな<抵抗>と<怨念>を象徴する、黒い外皮で梱包されたこれらの建築は、外界からの、ずうずうしくも、煩わしくもある、さまざまな要因を遮断した、いわば<PACKAGED ENVIRONMENT>をめざしているといえよう。そして、その内部空間のコアとなる空間は、外界との接触を最小限に抑えられたが故に生じた<個>の部分と、天空に向かって唯一の触手を延ばした<突出した孔>から注ぐ光との出会いの空間として、イメージされる。そして、<闇>に相当する部分も、それぞれ性格づけされることは、あらためて、いうまでもない。住居を都市の諸悪から隔絶し、まさに、個の領域で、操作可能な内部空間の充実に、すべてを託した<都市ゲリラ住居>― いいかえれば、都市生活者のアジトは、そのようなコンセプトのもとに、<私><夫婦>、あるいは、<家族>という最小単位での<私の存在感>を求めたのである。<都市ゲリラ住居>とは、大阪・東京などの大都市における、独立住居の存在を意味づける理論を包摂している。    この子供じみた諧謔性(カイギャクセイ)をおびた名称と形態を所有した住居が、実は、単に<諧謔性>として、すましてしまうことができぬところに、過密化し、疲弊しきった大都市が、その体内に根深く所有した、深い悲しみなのではないか。

(初出:『都市住宅7307臨時増刊 住宅』第4集)

まとめ

ブログのサブタイトルについて記載しました。

写経して、名言を一本いかせて頂きました。

ブログのサブタイトルなので、もう少しまともに記載しようと思い、ブログ開始から約2か月間引っ張ったけど、良い内容が浮かびませんでした。